今村天主堂の歴史

この地方にキリスト教の信仰が芽生えたのがいつ頃なのか定かではないが、1560年代には筑後地方での代表的なキリシタン集団が生まれたと伝えられる。1587年の豊臣秀吉によるキリシタン禁令、また1614年発布の徳川家康による全国的なキリシタン禁止令に基く弾圧の嵐は、1630年代、特に1638年の「島原の乱」が終わった年からこの地方にも吹き荒れた。しかし、多くの信者が隠れて信仰を守った。

1867年2月26日、浦上の4名の信徒により今村の潜伏信徒が発見され、浦上の信徒と密かに交流を保ちながら大切な信仰を守り通した。

キリスト教が解禁されたのは1873年(明治6年)である。

1879年(明治12年)フランス人宣教師ジャン・マリー・コール神父が初めて今村の信徒の司牧に着任し、青木才八家の土蔵を教会代わりに使用した。後継のソーレ神父により、1881年に信徒たちが敬愛した殉教者ジョアン又右衛門の墓があったこの地に最初の木造教会堂が建立された。

現在の二つの塔を持つロマネスク風様式赤煉瓦造りの教会堂は1908年に本田保神父により計画され、諸外国、特にドイツからの寄付、信徒たちの勤労奉仕により1913年(大正2年)に完成した。設計・施工は当時長崎で多くの教会建築を手がけた鉄川与助である。

今村天主堂概要

国内に残る煉瓦造りの教会堂としては貴重な存在である。軟弱な地盤のため基礎工事には技術・コスト面で困難を極めたと伝えられている。ステンドグラスはフランス製。柱は高良山のすぎ、煉瓦は千代田町(現神埼市)迎島の5工場に特注したもの、石材は浮羽郡(現うきは市)と西見(長崎県)産、内部に掲げてあるキリスト受難の14枚の聖絵はフランス製である。外部・内部とも建設当初の状態が保たれ、明治後期から大正初期に建設された教会建築の様子を知ることができる。

構造洋風小屋組 木及び煉瓦造 重層屋根
構成三廊式 四分割リヴ・ヴォールト天井
建築面積582.15㎡
床面積1階530.40㎡ 2階28.12㎡
塔屋高22.49m(避雷針含む)
主屋高18.07m(十字架含む)
材料煉瓦 – 迎島(現佐賀県神埼市)産

木材 – 高良山(久留米市)産

瓦 – 城島(久留米市)産

石材 – うきは市、西見(長崎県)産

ステンドグラス – フランス製

教会南東側

玄関部分のアーチと窓が見える。突出しているのは脇の出入り口。

教会北西側

祭壇がある部分は多角形の壁面で囲われ、縦長のステンドグラス窓が高所に配置されている。

双塔

この教会堂を特徴付ける二つの八角形の塔。手前は鐘塔になっている。

主廊

三廊式構成の主廊部。正面に祭壇。床は板張り。

側廊

三廊式構成の側廊部。正面には聖母子像が掲げられている。

内部側面

側面は高窓とトリフォリウム(アーチの付いた狭い廊下)、アーケードで構成されている。

祭壇

祭壇のある内陣部。上部に大天使ミカエル像が配置されている。手前にある柵は聖体拝領台。

主廊部天井

板張り、ペンキ塗り仕上げの4分割リヴ・ヴォールト天井。

両脇出入口

両脇に設けられている出入り口。円形の妻飾り、アーチは煉瓦と石材が交互に積まれている。